安房守日(真田豪语录)

发新话题
打印

[原创][初稿]壮哉儒医-曲直濑道三小传

[原创][初稿]壮哉儒医-曲直濑道三小传

在大和时代前期,日本并没有属于自己的医术。所以其采药师,药方,医师等都来自朝鲜。同时,因为当时日中两国往来非常的频繁,所以在学术交流方面也大为加强。钦明天皇十三年(552年)当时中国的梁元帝赠日本政府《针经》一部,钦明天皇二十三年(562)吴知聪携《明堂图》等医学资料一百六十四卷至日本。至隋唐时期,中国达到无比兴盛的地位。成为亚洲政治、文化、经济等的中心,此时日中两国的交流也达到了鼎盛的地步,日本政府屡次派“遣隋使”或“遣唐使”前往中国留学,推古天皇十六年(608)九月,药师惠日、倭汉直福因随“遣隋使”入隋学医,这是日人首次正式赴外国留学。此后,在舒明天皇二年(630)和孝德天皇五年(654),惠日又两度赴唐学习医术,将隋、唐医学传入日本。此外,公元754年唐高僧鉴真应邀,携带大批医书东渡日本成功,此后隋唐、宋代医学及医药著作大量源源不断地传入日本,成为日本医学的主流。当时日本不仅在临床上采用中医药理论与辨治方药,而且医学著作,医事制度、医学教育、医药管理等方面均与我国同出一辙。如公元9世纪日丰城天皇出云广贞等受命编纂《大同类聚方》100卷,就是参考传入日本的《黄帝内经》、《黄帝针经》、《脉经》、《甲乙经》、《小品方》等而成。公元10世纪,丹波康赖撰述《医心方》30卷,除以《诸病源候论》为主外,还博采南朝、隋唐医药书籍百余种。文武天皇大宝元年(701)日本仿唐律制《大宝令》,其中有关医学的部分称为《医疾令》它意味着中国完整的医疗体制在日本法律上得到全面肯定。 此后,随着日本与中国及朝鲜的医学交流不断加大,日本渐渐形成了自己的医学流派-汉方医学。而汉方医学又形成了许多流派,本文讲的就是以后世方派为主的曲直濑流的创始人-曲直濑道三。 在进入正文前,我们需要先来了解一个人,他就是曲直濑道三的老师,后世方派的鼻祖田代三喜。 公元1487年,当时23岁的田代三喜乘船来到了中国进行游学,当时正值“金元四大家”理论的高潮,受这股热潮的影响,田代三喜对“金元四大家”中的李、朱医学研究很深。其时有一位日本的僧人月湖寓居于钱塘行医,并著有《金九集》和《大德济阴方》各一卷,为了学习月湖的医术,田代三喜不惜落发为僧跟随着月湖学习。在月湖的的指导下,田代三喜用十二年的时间系统的学习了李、朱医学的理论。十二年后,田代三喜携《金九集》等方书回到了日本,回到日本后他立即还俗,并开始运用从中国学到的医学知识为人治病,,同时也开始向日本人民传授李、朱医学的知识。他在行医的过程中结合自己的经验和李、朱医学的理论著成了《捷术大成印可集》、《诸药势剪》、《药种稳名》、《医案口诀》、《三喜十卷书》、《直指篇》、《夜读义》以及《当流和极集》等多种医书,并开始广招弟子,其中最有名也是最有成就的就是-曲直濑道三。 永正四年(1507年),本姓堀部的曲直濑道三诞生于京都,诞生翌日父亲便死去了,接着道三又失去了母亲,小小的道三只能靠姐姐与伯母抚养。十岁时,道三被送到近江国天光寺出家,十三岁又进入相国寺开始佛門修行,法号为等皓。也许是儿童时期的可怜命运,道三在寺里学习的非常认真,其时的相国寺是一座文化氛围极其浓厚,同时汉学水平也相当之高的名刹。著名的学僧春屋妙葩就是相国寺的开山祖师,其他诸如学问僧义堂周信、太清忠谓等人也曾经在此作过参禅问答。在这种地方的学习,对曲直濑道三日后的知识积累、文化修养、人格倾向等等方面都起了很大的影响。而且年幼的他生性非凡,小小年纪就读懂了三体诗、东坡乐府以及汉唐的诗集,同时他还能背诵很多经卷。除此之外,他在数理化方面的造诣也很高,这一切的一切都为他日后成为一代名医打下了坚实的基础。 享禄元年(1527),时年22岁的道三前往关东游学,在下野的足利学校开始了自己新的学习生活,沉浸于学海的他感到无边的快乐,但他最喜欢的还是医学,只是苦于无名师指点。直到有一天,一位来访者来到了足利学校,这个叫做导道练师的人给道三他们这些学徒进行了一次演讲。在演讲中这位来访者为足利学校的学生们详细地讲解了李、朱的医学的理论,同时希望日本原来的医学有朝一日能脱胎换骨,听到演讲的道三感到无比的感动和惊讶,而这个叫导道练师的人,其实就是后世方派的鼻祖——汉方的一代名医田代三喜。田代三喜是足利学校的毕业生,他在这天应足利学校之请以先辈的身份为后辈们做了一场演说,与三喜的相逢,使得已经决意向医学发展的道三,得到了最好的契机。 享禄四年(1531)二十四岁的曲直濑道三来到了古河拜访田代三喜,并正式投师于三喜的门下,从那一天起曲直濑道三随着田代三喜抄方施药、把脉问诊长达十余年之久。 ,做为一位名师,田代三喜不仅将自己毕生所学都传授给了道三,将还后世方流的种种奥义与秘方都传给了道三。  在学习了十余年后,已得田代三喜全部所学的道三回到了阔别十数载的京都,正式还俗行医。由于道三那神般的医术。才没多久,他的名声已传遍京都。为了证实道三的医术,时任室町幕府的将军足利义辉召见了他,在证实了道三确实拥有传说中那神般的医术后。京都轰动了。在当时的日本,可以受到能幕府将军的知遇,是无数人梦寐以求的事情,但以道三却并不以为然,他没有对世俗的权威进行任何的阿谀奉承,而这种超俗的风格,更增加了他的威望。随后道三又给細川晴元,三好長慶,松永久秀等人进行了诊疗。此后,道三又为毛利元就等诸多大名进行了诊疗,天正2年(1574年)道三有获准为正親町天皇进行诊疗,并将自己的著作《启迪集》献上,正親町天皇命僧策彦周良作一序,并赐予翠竹院之号。在信长上洛后,道三又为信长进行了治疗,为了感谢他的精心治疗,织田信长甚至将不轻易赐人的名香兰奢待也赐给了这位一代名医。由此可见道三的医术已达何种境界。 于此同时,其时以为京都名医的道三又在京都开设了名为启迪院的医学学校教授弟子,道三不仅在这座学校里投入了大量的资金,更以自己的的行医经验写成了身为医者必须遵守的《医工宜慎持法》(亦称五十七条法),同时他又以自己亲身经历告诉弟子们应该如何行医与做人。在学校担任指导的同时,他还经常在各地进行巡游治病,竭力地介绍李朱医方神奇的效用。(值得一说的是,在启迪院中学习的八百多位医者,大多数人后来都成为了一代名医。这些学生也大多成为了道三学派的骨干,为后世方派在日本的医学界中占据了一席之地立下了不小的功劳。) 在行医数十年后的天正二年(1574),即道三六十七岁那年的春天,道三倾其全部心血调査研究了大量的古今内外医书,并通过记载与引用大量中国医籍且结合自己的临床经验后,终于集成医方秘典八卷,这就是道三生平最伟大的著作,日本第一部察证辨治全书——《启迪集》。 该书引用中国医书达63种之多,其内容以引李东垣《脾胃论》、《兰室秘藏》,朱丹溪《格致余论》、《丹溪心法》为最多。但并不拘于金元医家,而是博采众长、首次提出以传统医学的理论,把握人体生理、病理、疾病表现,在此基础上察证辨治,形成较为完整的理论体系,建立了日本汉方医学独立发展的基础。这本书是日本后世方派的代表之作,而且一度为日本医学界视为金科玉律而倍加尊崇。除此之外,道三还著有《云阵夜话》、《泪墨纸》、《药性能毒》、《遐龄小儿方》、《切纸》、《和字全九集》、《养生秘旨》等。并且道三他根据自己的临床经验写成了《出证配剂》一书,此书详尽地分析了各种疾病的常见及伴见症状,同时结合药物的药效开出处方。这种医学思想开创了日本"实证医学"的发展之路。因此也使曲直濑道三被人们敬称为“日本汉方医学的中兴之祖”。 晩年的曲直濑道三一直在为天皇一家、徳川一族、丰臣秀吉、淀君的将臣一门以及大名毛利元就、蒲生氏乡等人治疗疑难杂症,真是忙碌的连将席子坐热的工夫都没有。然而尽管如此的繁忙,早已经成为了医界的大御所的道三仍然没有丝毫的懈怠。从不将能够治疗天皇,大名的事作为炫耀的资本,而是依然象一个普通医生一样为拯救普通民众的病痛而奔波劳碌。无论有多么大的名气,平时的他仍将安静的生活、读书和研究医学作为无上的快乐。 元和元年,历经艰辛的徳川家康终于统一了天下。作为对道三医术的肯定与褒奖,德川幕府立即明令宣布由曲直瀬家世袭侍医和典药两职,同时在江户城(今东京)附近的和田仓门前为道三和他子孙建造了一座广大的宅邸,那幢宅邸一直到明治维新时还保存着,邸前的小河还被当时的人们叫做道三堀和江户子。 天正12年(1584)道三借为豊後府内天主教会会宣教師オルガンティノ诊疗之际,接受洗礼,皈依基督教(洗礼名はベルショール) 天正20年(1592)後陽成天皇赐予道三“橘”姓与今大路的家号。 文禄三年(1594),时年八十八岁的有着“日本汉方医学的中兴之祖”之名,深受室町幕府将军足利义辉、管领细川胜元以及关白丰臣秀吉、德川幕府的创始人德川家康等人厚待的京都名医、名茶器"富士茄子"的持有者曲直濑道三先生在京都十念寺中去世,享年八十八岁。这一年恰是他的米寿之年。  作为一名医生,道三的医术水平可以用“神技”来形容,而其道德修养方面也是非常值得人们学习,立志学医的他并没有象一般的人那样把医术作为自己安生立仕之道,而是一直将救济民众作为自己的第一要务。据说道三在足利学堂学习的时候,有一天老师六世痒主文伯问他:"你以后是不是要以儒学立身?"道三摇摇头说:"不,我将来立志学医,为困苦的穷人服务." 六世痒主文伯惊讶地问:"既你立志学医,为什么跑来跟我学习经书?" “我是打算先学好儒家学说,再去习医.先在我心里存有仁民爱物的思想,这样在掌握医术以后,才可以仁心仁术”。如果没有怜悯的心,光有高明的医术是没有用的.。 在他为自己的学生写的《医工宜慎持法》里,道三第一条写的便是“慈仁”,身为拯救他人性命的医师,必须要有高尚的品德,否则便不配做一名医师。 作为一名神医,道三不仅在个人医术方面有极高的造诣,在日本的医学史上道三也有很大的贡献,做为后世方流的集大成者,道三在他的著作了融合了当时各医术流派的理论,并加上了自己的思想,他的著作,思想,成为日本汉方医学的主流学术思想并一直对日本汉方医学界产生着重大的影响—明治时代前日本汉方医学界的主流一直都是道三先生所宣扬的后世方派。 为医,神技可以活世人。为儒,道德能够感众生。曲直濑道三不仅仅是一名伟大的医生,他也是一位思想家,他的人生,他的思想,永远值得我们学习! ------------------------------------------------------------------------------- 参考资料: 最上义成著 剑胆琴心济世手—日本汉方名医列传 http://www.ribenshi.com/wenzhang/zhu/mingyi.html 姜哥著 日本汉方医学发展简史 http://www2.jituo.net/ecpu/11/7175.html 维基百科日文版 曲直濑道三

TOP

re:所以这只是初稿啊.........等...

所以这只是初稿啊......... 等我写完主公你再看吧~~~ 话说~其实最上殿也只是翻译了下维基百科而已..

TOP

re:曲直瀬道三(まなせ どうさん) 1507...

曲直瀬道三(まなせ どうさん) 1507~1594(永正四年~文禄三年)  古医方中興の祖といわれる名医であった。実名は正盛または正慶ともいい、字は一渓、雖知苦斎(すいちくさい)、盍静翁などを号した。  京都の生まれ、誕生の翌日父を失い、ついで母に死別し、伯母と姉に養われて幼児をすごし、十歳の年、近江国天光寺に引取られ、十三歳相国寺に移り僧門修行の方向につき、髪を落として等皓(とうこう)の僧名に改めたのもこの年である。性来の非凡児はこの年頃に三体詩、東坡(とうば)など漢、唐などの詩集を読解し、幾種かの経巻も暗記し、算数理化博物の学問にまで知見を広めていった。山門を出て関東に下り。下野国足利学校に入学したのは二十二歳の秋である。彼はここで経史、諸子百家の書を心ゆくまで味読し、学業の楽しさに旅の苦労を意としなかった。ある日、足利学校に一人の来訪者があり、導道練師と名のるこの人物が、道三らの学徒に講演を行なった。李、朱の医方を説き、日本旧来の医方の脱皮を迫り、新医療の実行普及を告げる論旨に、誰よりも道三は感動し驚目した。この導道練師と名のる人物こそ実は田代三喜であった。三喜は足利学校の卒業生であり、この日は先輩として一場の演説を試みたのであるが、すでに医書にも親しみ新しい学問への転機を決意し、よき指導者を思いあぐんでいた矢先とて、三喜とのめぐりあいに道三は心おどる思いだった。三喜は明国十二年間の留学を終えて帰国し、京都に医業活動を続け、この頃下総古河に定住して、関東管領古河公方の厚遇をうけ、年六十の老余生活を李朱医学の宣揚に献げていた。道三は、えりを正して古河に三喜を訪ね、師弟の誓いをとげた。時に1531年(享禄四年)二十四歳であった。講究六年の間に医術の秘方奥義の全容を知得した道三は、十年ぶりで京都に帰った。もう僧形ではなかった道三は、帰京と同時に還俗し、医業活動に入った。学んだ師と修業の深さはたちまち京の噂となり、将軍足利義輝に召しだされ、市中の噂にまさる診療の手腕はたたえられ、面目を施したが、当時の世代にあっては、幕府や将軍の知遇を得ることは何といっても、保身栄達の早道だった。道三の博学と実力は世俗に染み権威におもねる必要はなかったが、その超俗の風格に一層信望を加えた。細川勝元、三好修理、松永弾正らの幕府重臣は、神仏以上に道三の医療に心服をはらって、彼が医学生養成のため設立した学舎の経営に巨費を投じての協力であった。道三は学舎での指導のほか、師田代三喜同様に各地を巡遊して李朱医方の効用を力説した。さらに古来の内外医書を閲覧調査に心血を傾け、医方秘典を集成して八巻に及ぶ啓廸集(けいてきしゅう)を脱稿した。1574年(天正二年)道三六十三の春、ついで同年十一月十七日その書稿を正新町天皇に献上し大いに嘉賞され「翠竹院」の名号を拝受した。晩年の道三は天皇御一家、徳川家康以下一族、豊臣秀吉、淀君の将臣一門、毛利元就、蒲生氏郷らの相次ぐ難病治療に、席のあたたまるひまもなかった。政権が徳川に帰してからは、曲直瀬家を世襲の侍医典薬とする内規が定められ、江戸城至近の和田倉門前に広大な邸宅が道三とその子孫のため築造され、その邸宅は明治維新まで存置し、邸前の小流は道三堀と江戸っ子はよび、古記録によっていまに伝えられている。医界の大御所的存在になっても、道三は少しも心ゆるめず、輝かしい世評、天子、関白、名将の信頼におごることなく、市中の医者の日常そのままでおしとおし、読書と研究を最上の楽しみとした。文禄三年(1594年)一月四日八十八歳で永眠、京都十念寺に奥津城がある。 いうまでもなく、わが国に実証的医学発達の端緒を招いた医学中興の祖として崇拝されているのが曲直瀬道三である。 道三は名を正盛、また正慶ともいう。字は一渓で雖知苦斎(すいちくさい)、盍静翁(こうせいおう)または寧固(ねいこ)と号し、院号は翠竹院、のちに亨徳院と称した。永正四年(一五○七)京都の生まれである。  十歳のとき江州(滋賀県)守山の天光寺に入り、十三歳のとき相国寺に移って喝食(かつじき)となった。 二十二歳のとき遊学の志を立て、下野(栃木県)の足利学校に入る。 その頃、明の留学から帰った田代三喜が初めて李朱の医方を関東で唱え、関東一円の間を往来して治を施していた。 道三は享禄四年(一五三一)会津の柳津で三喜と歴史的な出会いをしている。 そして、入門すること数年、李朱医学を講究し、古来の諸論、諸方の可否を明らかにし、用薬百二十種の効能を伝授され、天文十四年(一五四五)三十九歳の時、京に帰り、医術を専業に行うこととした。  李朱医学を基礎に医師として名声を得た道三は、いままでに見られなかったタイプの医師であった。 すなわち名もない家柄から医師として一家をなし、将軍に仕えるまでになったものはいなかった。 時がまさに戦国の下剋上の世であったればこそ、より実践的で役に立つ彼の医学が人々に瞬時として入れられることになったのであろう。 道三はまた、啓迪院なる学舎を創設し、後進の養成にも力を注いだ。 この啓迪院はわが国の医学教育史上きわめて重要な存在である。 彼はこの医学教育の中で五十七ヶ条の医家の守るべき法を門人に与えているが、それは非常にプラグマチックなもので、よけいな道徳的説教は一条たりともなかった。 ただ第一条に「慈仁」とだけ記されているのみである。  道三の代表的著述は『啓迪集』である。これは李朱医学の立場から古今の医書の主要な部分を抜粋し、簡潔に表式化したもので、それに自己の経験を加えている。 その他、『切紙』『薬性能毒』『出証配剤』『遐齢小児方』『涙墨紙』『雲陣夜話』など多数ある。 文禄三年(一五九四)没した。八十八歳であった。 主公可以看下...

TOP

re:为什么我不能编辑自己的帖子?

为什么我不能编辑自己的帖子?

TOP

re:........主公删了吧

........主公删了吧

TOP

发新话题