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五日一二日、下総の土気(とけ)城(千葉市)・東金(とうがね)城(千葉県東金市)を攻略中の浅野らの部隊に対し、秀吉はいくつかの指示を与えています。浅野らが攻略した城の周辺の村々から年貢として納入する夏麦については、攻略した城の留守居(るすい)の者に任せて、当面はどこにも納入しないよう百姓らに通達するよう命じています。さらに乱暴狼藉をする恐れもあることから、浅野らが直接村々に部隊を派遣することも厳禁しています。また秀吉は、浅野らに対して「禁制」の効力によって焼失を免(まぬが)れた村々の百姓からは、「禁制」発給の手数料として兵粮(ひょうろう)を進上(しんじょう)させることも命じています(「難波創業録」(なにわそうぎょうろく))。兵粮とは戦時に将兵に与えられる食糧のことです。「禁制」を発給する際には、通常地域からその手数料を銭で徴収しますが、ここでは兵粮を進上させています。本来、秀吉「禁制」は地域の安全保障のために出されたのですが、場合によっては兵粮の確保という意図に関連したケースがあったのかもしれません。さらに別の資料で分かることですが、秀吉は、拠点である岩付城(いわつき)(埼玉県岩槻市)や鉢形城をなかなか攻略しない浅野らを叱責しています。すでに東北地方の平定(へいてい)まで考えている秀吉からすれば、浅野らの部隊の動きが気になっていたのでしょう。