安房守日(真田豪语录)

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有劳宗信殿了(关于大盐平八郎之乱的资料翻译)

有劳宗信殿了(关于大盐平八郎之乱的资料翻译)

大塩の乱は天保八年の一(二)[/COLOR]月十九日に大阪に於て起つた。所が是より先非常に天変地異が起り、随て飢鎮が襲来し、国民の窮乏甚しく、而も一方に於て幕府、各藩は財政困難となり、機宜の策に依つて国民の窮乏を救う訳にはいかなかつた。又もう一つは武士階級それ自体が精神的にも、亦物質的にも支配力を失つて居つたのである。其処で天保年間になつてから度々騒動が起り、天保元年には、私の調査に依ると五回、二年には四回、三年には五回、四年には七回、五年には二回、六年には五回、七年には三回と、斯う云ふ風に頻発して居るのである。而して是は明和、安永、天明の二十年間の最も百姓一揆の多かつた時代よりもひどかつたのである。又天保年間の一揆は大規模であつて、殆んど天下が是で覆へるのぢやないかと思ふやうな一揆もあつた。併し其の中でも天保八年の大塩の乱位人心に極度の刺激を与へたものはなかつたのである。而も是は其の規模から云ふと非常に小さいのであつて、約三百人足らずの人間がぱちぱちとやつただけである。併し是が非常に強い衝動を与へたのは、今迄頗る生活が困難で、人心が動揺して居つたことも一つの原因であるが、もう一つは火事が起つて、当時の天下の台所である大阪の重要なる部分が殆ど全部焼けて仕舞つたので、非常に被害があつたこと、又もう一つ一番大きな理由は、大塩の乱と云ふものが革命的精神に依つてベガイステルンされて居つたと云ふことである。斯う云ふ様な事情で当時の人々は非常に大塩の乱に関心を持つたのである。それが如何に関心を持ち、如何に津々浦々迄伝はつたかと云ふことは、此の事件に関する記録が色々な形で広く日本国中に流布して、津々浦々に至る迄是があると云ふことを以て見ても分るのであつて、此の史料を捜すと云ふことは極めて容易である。徳川時代には先程申した如く、色々な形の騒動があつた。併し大塩の乱に関する物程多く流布したものはない。其の他の史料は興味本位で書かれて居り、講談、芝居などに仕組まれて誰にも分りやすく作られ、而もそれは勧善懲悪的の意味で、寧ろ武士階級が其の流布を歓迎すると言つたやうな調子であつた。所が大塩の乱に関する記録は沢山あるが、それに書かれて居る事柄は概ね事実の記述であつて、而も是は報告文であるとか、判決文であるとか言つたやうなものを大部分集めたもので、実に無味乾燥である。而も又一方に於て大塩を逆賊であると云ふやうに取扱つて居るのであるから、皆悪ざまに書いてあるのである。それにも拘はらず多くの人が興味を持つて読んだと云ふことは、是はどうしても当時の思想の必然的反映であると思ふ。  大塩平八郎と云ふ人間は実に面白い人物である。此の人のやつたこと、此の人の書いた物を見ると、今日の斯の如ぎ世情に於ては大いに発奮興起する所がある。大塩の人となりのことに就いては幸田成友先生が大阪市に於て集められた史料に依つて『大塩平八郎』と云ふ書物を書いて居るが、 それは非常に精しく書かれて居る。又国府犀東氏が『大塩平八郎』と云ふ本を書いて居る。此の二つを見れば十分に分るのであるから、茲では申さない。唯々私の関係する限りに於て極めて簡単に申すならぱ、大塩平八郎は大阪の東組の与力であつて、上級武士ではないが、相当の支配階級としての地位を持ち、随てイデオロギーは当時の武士的イデオロギーであつた。さうして天保七年に甲州に於て非常に大きな百姓一揆が起つた時に大塩は、是はどうも大変である、今の様な武士の精神状態では迚も駄目だ、又武備が非常に弛緩して居るので、是はどうしても武士の精神を練り直し、同時に武備を十分にしなければならぬ。今日の如き客観的情勢の下に於ては、百姓一揆が度々起るに相違ない、さうして之を十分に弾圧し、取締ることが出来ないと云う風に考へて、武備の研究をしたと伝へられて居る。所がさう云ふものを研究して居る問に段々と木乃伊取りが木乃伊になつて、転向をした。即ち農民的イデオロギーに段々と援近するやうになつて来たのである。それで彼は百姓一揆の頻発と云ふものは社会組織の欠陥から来るのである。又随つて米や其の他の主要なる配給制度が政治家とか、町人が独占して居る、又斯う云ふ社会を存統させる限りさう云ふことが起る。さうして漸う云ふ不届なことをするのが神の怒りに触れて、其の為に天変地異が起つたのである。それ故王政を復古して、国民大衆の生活を良くし、生活苦から解放しようと云ふ思想を持つやうになつた。さうして彼の思想である所の知行合一、即ち知ると云ふことは行ふことに依つて最も能く知り得るのであると云ふマルキストの考へ、--実践躬行之を実現して行かう、随て即決断行すると云ふことを考へて、遂に直援行動を行ふやうになつたのである。彼の学問は陽明学である。世をはばかつて初めは自ら孔孟の学徒と言つて居るが、併し実際やつたのは陽明学であつて、王政復古を目的として居つたのである。それに就ては『洗心洞剳記』と云ふ著書があつて、其の中に大体彼の主張が書かれて居る。此の書物を書いた時には彼は非常な決心を持つて居つた。と云ふのは此の書物を書いて富士山の山頂に持つて行つて埋めたと云ふ説があり、又焼いたと云ふ説もあるが、兎に角天に在す神の照覧を仰ぐと云ふ目的を以てやつたのであると云ふことが神宮文庫の納本に載つて居る。此の熱烈には大いに期する所があつたことが想像されるのである。是等の事情から察するに彼は謀叛、反乱と云ふことを考へて居つたやうである。併し此の反乱に依つて真に天下が覆へるとは考へて居らなかつたやうであるが、少くとも国家の柱石となり、又之に依つて一石を投じ、段々と革命的思想が伝播して、社会苦から国民大衆が救はれるであらうと、斯う云ふ風に考へて居つたやうである。
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Re:有劳宗信殿了(关于大盐平八郎之乱的资料翻译)

大塩の反乱を書いたものが、先程申したやうに、津々浦々の人々に非常なインタレストを以て読まれたのであるが、果して然らば若し百姓一揆が其に革命的の精神を以てリードされて居るものであるならは、斯の如く明に激情的な熱烈さを以て行動した大塩の乱が起つた後に於ては、更に以前にも増して色々な暴動が起つて来なければならない筈であると思ふのである。所が其の影響を見ると、具体的に騒動になつて現はれたものは非常に少いのである。  唯々一つ越後の柏崎に於て其の年の六月生田万(国秀又は道満)と云ふ国学者が当時の世情を慣慨して、大塩の乱に傚つて騒動を企てた。併し之に参加した者は大部分当時のインテリ階級であつて、農民は極めて少く、二三人しか居ない。而もそれは全く己むを得ず参加した連中である。所が此の生田万の思想は大塩と同じやうな思想であつて、極端に徳川の封建社会と云ふものを否定する思想に立つて居り、王政復古を指導精神として居るのである。御承知の如く生田万は当時として極左の思想を持つて居たのであつて、東照宮に詣うでゝ詠んだ歌があるがよく彼の思想を示して居る。  「神ころひ君ころへりと見ん人のありやあらすやこれの大宮」  即ち東照宮に参つて其の壮麗な建築を見て、天に在す神が之を譴らないか、 一天万乗の君が怒らないか、怒つて居ると云ふことを見る人があるか、ないか、此の大きな神社を今日どう思ふかと云ふ歌である。是は当時としては不届極まる歌であるが、実際是は生田万の思想を現はして居るのである。又天の命を奉じて国賊を誅すると云ふやうなスロ-ガンは大塩の彫響を受けて居ることは明かである。併し是もそれきりであつて、而も是は百姓一揆ではない。  百姓一揆として大塩の乱以後起つたものは割合に少いのであつて、備後の三原の音姓一揆、摂津の能勢の百姓一揆、阿波国、それから播磨の東部の百姓一揆、其の他の百姓一揆は之と全然関係はない。文献に依ると、備後、摂津、阿波、播磨の此の四つの百姓一揆だけは大塩の影響を受けたと云ふことが明に記されて居るのである。詰り其やり口から見て影響を受けて居るのである。併しそれから後になると段々百姓一揆の数が少なくなつて居る。大塩の乱の起つたのは最も百姓一揆の頻発甚しい時である。若し百姓一揆が真に封建社会を否定する革命運動であり、随て革命性を持つて居るものであると云ふのであれば、大塩の乱を転機として益々百姓一揆が多くなり、拡大して行かなけれぱならない筈であるけれども、事実は正に逆になつて居るのである。私は百姓一揆の本質から見て、百姓一揆と云ふものはどうしても革命性を持ち得ないものであると云ふことを繰返して申さゞるを得ないのである。又同時に大塩の乱の様な革命的精神に依つて導かれたものであつても、而もそれが津々浦々に至る迄読まれたものであるにも拘らず、それが百姓一揆として現はれなかつたと云ふ事実からして、徳川時代の百姓一揆が、与へられた苦痛の軽減除去と云ふリアクシヨンに過ぎないと私は考へたのである。勿論大塩の乱に関する研究は尚ほ十分でないし、又其の後に起つた百姓一揆の検討も完全であるとは申されないが、私の主張の正しいと云ふことを今日も尚ほ考へて居るのである。  尚ほ此の問題に就いては此処に列席されて居る所の土屋喬郎氏、其の他色々な方々が批判されて居る。併しそれは皆立場の相違があるやうに考へられる。最近では田村栄太郎氏が歴史科学に於て「百姓一揆の論争の批判」と云ふ一論文を書かれて居るやうな状態であつて、この問題は忘れられては居らない。恐らくこの論戦は長く未決のまゝ継続せられると思ふ。それにつけ先づ革命的とは何ぞやの問題を解決すること、事実の検討、徳川時代封建社会の本質の発明、身分社会と階級社会の概念の確立をしなければ、いくら議論をしてもつきない。結局は泥試合に終らざるを得ない。希くぱ朗かな気持で友誼的学究的論争によつて解決し度い。  話が極めて雑駁で、私に対する批判者の批判を封じて自分のことばかり申して甚だ失礼であつたが、最近聊か研究したので論戦の蒸返へしをやつても宜いと思ひ、敢て此の席で私の意見を申上げ又批判に対する傍証的弁護を致したやうな次第である。
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