安房守日(真田豪语录)

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[转帖]《上宫圣德法王帝说》

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伊波禮池邊雙槻宮治天下橘豐日天皇 娶庶妹穴穂部間人王 爲大后 生児 厩戸豐聰耳聖德法王 次久米王 次殖栗王 次茨田王   又天皇娶蘇我伊奈米宿禰大臣女子 名伊志古那郎女 生児 多米王   又天皇娶葛木當麻倉首名比里古女子 伊比古郎女 生児 乎麻呂古王 次須加古女王【此王拝祭伊勢神前至于三天皇也】合聖王兄弟 七王子也   聖德法王娶膳部加多夫古臣女子 名菩岐岐美郎女 生児 舂米女王 次長谷王 次久波太女王 次波止利女王 次三枝王 次伊止志古王 次麻呂古王 次馬屋古女王【以上八人】   又聖王娶蘇我馬古叔尼大臣女子 名刀自古郎女 生児山代大兄王【此王 有賢尊之心棄身命而愛人民也 後人與父聖王相濫非也】次財王 次日置王 次片岡女王【以上四人】   又聖王娶尾治王女子 位奈部橘王 生児 白髪部王 次手嶋女王 合聖王児十四王子也   山代大兄王娶庶妹舂米王 生児 難波麻呂古王 次麻呂古王 次弓削王 次佐佐女王 次三嶋女王 次甲可王 次尾治王   聖王庶兄多米王 其父池邊天皇崩後 娶聖王母穴太部間人王生児佐富女王也  斯貴島宮治天下阿米久爾於志波留支廣庭天皇【聖王祖父也】 娶檜前天皇女子 伊斯比女命生児他田宮治天下天皇 怒那久良布刀多麻斯支天皇【聖王伯叔也】   又 娶宗我稲目足尼大臣女子 支多斯比賣命生児伊波禮池邊宮治天下 橘豐日天皇【聖王父也】妹小治田宮治天下 止餘美氣加志支夜比賣天皇【聖王姨母也】  又娶支多斯比賣同母弟 乎阿尼命生児倉橋宮治天下 長谷部天皇【聖王伯叔也】 姉穴太部間人王【聖王母也】  右五天皇無雑他人治天下也【但倉橋第四 小治田第五也】   小治田宮御宇天皇之世 上宮厩戸豐聰耳命 島大臣共輔天下政而興隆三寶 起元興天四王等寺 制爵十二級 大德 少德 大仁 少仁 大禮 少禮 大信 少信 大義 少義 大智 少智   池邊天皇后 穴太部間人王 出於厩戸之時 忽産生上宮王   王命幼少聰敏 有智 至長大之時一時聞八人之白言而辧其理 又聞一智八 故號曰厩戸豐聰八耳命     池邊天皇 其太子聖德王 甚愛念之 令住宮南上大殿  故號上宮王也   上宮王師高麗慧慈法師 王命能悟涅槃常住 五種仏性之理 明開法華三車權實二智之趣 通達維摩不思議解脱之宗 且知經部薩婆多両家之弁 亦知三玄五經之旨 並照天文地理之道 即造法華等經疏七卷 號曰上宮御製疏 太子所問之義 師有所不通 太子 夜夢見金人 來敎不解之義 太子寤後 即解之 乃以傳於師 師亦領解 如是之事 非一二耳  太子起七寺 四天王寺 法隆寺 中宮寺 橘寺 蜂丘寺【并彼宮賜川勝秦公】池後寺 葛木寺【賜葛木臣】   戊午年四月十五日 少治田天皇 請上宮王令講勝鬘經 其儀如僧也 諸王公主及臣連公民 信受無不嘉也 三箇日之内 講説訖也   天皇 布施聖王物播磨國 揖保郡 佐勢地五十萬代 聖王即以此地爲法隆寺地也【今在播磨田三百餘町者】  慧慈法師 上宮御製疏 還歸本國流傳之間 壬午年二月廿二日夜半 聖王薨逝也   慧慈法師聞之 奉爲王命講經發願曰 逢上宮聖王必欲所化 吾慧慈來年二月廿二日死者 必逢聖王面奉浄土 遂如其言到明年二月廿二日 發病命終也   池邊大宮御宇天皇 大御身労賜時 歳次丙午年 召於大王天皇與太子 而誓願賜 我大御病大平欲坐故 将造寺薬師像作仕奉詔 然當時崩賜 造不堪者 小治田大宮御宇大王天皇 及東宮聖德王 大命受賜而 歳次丁卯年仕奉   右法隆寺金堂坐薬師像光後銘文 即寺造始縁由也  法興元丗一年 歳次辛巳十二月 鬼前大后崩 明年正月廿二日 上宮法王枕病弗 干食王后 仍以労疾 並著於床 時王后王子等 及與諸臣 深懐愁毒 共相發願 仰依三寶 當造釋像尺寸王身 蒙此願力 轉病延壽 安住世間 若是定業 以背世者 往登浄土 早昇妙果 二月廿一日癸酉王后即世 翌日法王登遐 癸未年三月中 如願敬造釋迦尊像 并侠待 及荘厳具竟 乗斯微 福信道知識 現在安隠 出生入死 随奉三主 紹隆三寶 遂共彼岸 普遍六道法界含識得脱苦縁 同趣菩提 使司馬鞍首 止利仏師造   右法隆寺金堂坐釋迦仏光後銘文如件【今私云 是正面中臺佛也】  釋曰 法興元丗一年 此能不知也 但案帝記云 小治田天皇之丗 東宮厩戸豐聰耳命 大臣宗我馬子宿禰 共平章而建立三寶 始興大寺 故曰法興元丗也 此即銘云法興元丗一年也 後見人 若可疑年號 此不然也 然則言一年字 其意難見 然所見者 聖王母穴太部王薨逝辛巳年者 即小治田天皇御世 故即指其年 故云一年 其無異趣  鬼前大后者 即聖王母穴太部間人王也 云鬼前者此神前也 何故言神前皇后者 此皇后同母弟 長谷部天皇 石寸神前宮治天下 若疑其姉穴太部王 即其宮坐故 稱神前皇后也  言明年者即壬午年也 二月廿一日癸酉 王后即世者 此即聖王妻膳大刀自也 二月廿一日者 壬午年二月也 翌日法王登遐者 即上宮聖王也 即世登遐者 是即死之異名也 故今依此銘文 應言壬午年正月廿二日 聖王枕病也 即同時 膳大刀自得労也 大刀自者 二月廿一日卒也 聖王廿二日薨也 是以明知 膳夫人先日卒也 聖王後日薨也 則歌證曰   伊我留我乃  止美能井乃美豆  伊加奈久爾  多義麻之母乃  止美乃非能美豆  是歌者膳夫人臥病 而将臨没時乞水 然聖王不許 遂夫人卒也 即聖王誄而詠是歌 即其證也 但銘文意 顕夫人卒日也 不注聖王薨年月也 然諸説文 分明云 壬午年二月廿二日甲戌夜半 上宮聖王薨逝也  出生入死者 若其往反 所生之辭也  三主者 若疑神前大后 上宮聖王 膳夫人 合此三所也   斯斯麻宮治天下天皇 名阿米久爾意斯波留支比里爾波乃彌己等 娶巷奇大臣名伊奈米足尼女 名吉多斯比彌乃彌己等爲大后 生名多至波奈等己比乃彌己等 妹名等已彌居加斯支移比彌乃彌己等   復娶大后弟 名乎阿尼乃彌己等爲后 生名孔部間人公主   斯歸斯麻天皇之子 名奈久羅乃布等多麻斯支乃彌己等 娶庶妹 名等己彌居加斯支移比彌乃彌己等 爲大后 坐乎沙多宮治天下 生名尾治王   多至波奈等己比乃彌己等 娶庶妹 名孔部間人公主 爲大后 坐濱邊宮治天下 生名等己刀彌彌乃彌己等 娶尾治大王之女 名多至波奈大女郎爲后   歳在辛巳十二月廿一日癸酉 日入 孔部間人母王崩   明年二月廿二日 甲戌夜半 太子崩   于時多至波奈大女郎 悲哀嘆息白 畏天皇前曰敬之雖恐 懐心難止使 我大王與母王 如期従遊 痛酷无比 我大王所告 世間虚假 唯仏是真 玩味其法 謂我大王 應生於天壽國之中 而彼國之形眼所看 因圖像欲觀大王往生之状 天皇聞之悽然告曰 有一我子 所啓誠以爲然 勅諸采女等 造繍帷二張 畫者 東漢末賢 高麗加西溢 又漢奴加己利 令者椋部秦久麻   右在法隆寺蔵繍帳二張 縫著龜背上文字者也 更更不知者也  巷奇【蘇我也】 彌字【或當賣音也】 已字【或當余音也】 至字【或當知音也】 白畏天之者【天即小治田天皇也】 太子崩者【即聖王也】 従遊者【死也】 天壽國者【猶云天耳】 天皇聞之者【又小治田天皇也】 令者【猶監也】   上宮薨時臣勢三杖大夫歌  伊加留我乃  止美能乎何波乃  多叡婆許曾  和何於保支美乃  彌奈和須良叡米  美加彌乎須  多婆佐美夜麻乃  阿遅加氣爾  比止乃麻乎之志  和何於保支美波母  伊加留我乃  己能加支夜麻乃  佐可留木乃  蘇良奈留許等乎  支美爾麻乎佐奈  丁未年六七月 蘇我馬子宿禰大臣 伐物部室屋大連 時大臣軍士 不尅而退 故則上宮王 擧四王像 建軍士前 誓云 若得亡此大連 奉爲四王 造寺尊重供養者 即軍士得勝 取大連訖 依此即造難波四天王寺也 聖王生十四年也   志癸島天皇御世 戊午年十月十二日 百済國聖明王 始奉度仏像經敎并僧等 勅授蘇我稲目宿禰大臣 令興隆也   庚寅年 焼滅仏殿仏像 流却於難波堀江   小治田天皇御世 乙丑年五月 聖德王與島大臣 共謀建立仏法 更興三寶 即准五行 定爵位也 七月 立十七條法也   飛鳥天皇御世 癸卯年十月十四日 蘇我豐浦毛人大臣児入鹿臣■■林太郎 坐於伊加留加宮 山代大兄及其昆第等 合十五王子等悉滅之也   ■■天皇御世乙巳年六月十一日 近江天皇【生廿一年】殺於林太郎■■ 以明日 其父豐浦大臣子孫等皆滅之   志歸島天皇治天下一年【辛卯年四月崩 陵檜前坂合岡也】   他田天皇治天下十四年【乙巳年八月崩 陵在河内志奈我原也】   池邊天皇治天下三年【丁未年四月崩 秋七月奉葬 或云川内志奈我中尾稜】   倉橋天皇治天下四年【壬子年十一月崩 實爲島大臣所滅也 陵倉橋岡在也】   小治田天皇治天下卅六年【戊子年三月崩 陵大野岡也 或云川内志奈我山田寸】  上宮聖德法王 又云法主王 甲午年産 壬午年二月廿二日薨逝也【生九年 小治田宮爲東宮也 墓川内志奈我岡也】  --------------------------------------------------------------------------------  裏書  庚戌春三月 學問尼善信等 自百済還 住櫻井寺 今豐浦寺也【初櫻井寺云 後豐浦寺云】   曾我大臣云 豐浦大臣云云   觀勒僧正 推古天皇即位十年壬戌來云云   佛工鞍作鳥 祖父司馬達等 父多須奈   或本云 播磨水田 二百七十三町五段廿四歩云云   又本云 三百六十町云云   有本云 請願造寺 恭敬三寶 十三年辛丑 春三月十五日 始浄土寺云云   注云 辛丑年 始平地 癸卯年 立金堂云云 戊申始僧住 己酉年三月廿五日 大臣遇害 癸亥年 構塔 癸酉年 十二月十六日 建塔心柱 其柱礎中作圓穴 列浄土寺 中置有蓋大鋭一口 内盛種々珠玉 其中有塗壷 壷内亦盛種々珠玉 其中有銀壷 壷中内有純金壷 其内有青■■瓶 其内納舎利八粒 丙子年四月八日 上露盤   戊寅年十二月四日 鋳丈六佛像 乙酉年三月廿五日 點佛眼 山田寺是也 【注 承歴二年戊午 南一房冩之 直曜之本云云】   曾我日向子臣 字無耶志臣 難波長柄豐碕宮御宇天皇之世 任筑紫大宰帥也 甲寅年十月 癸卯朔壬子 爲天皇 起般若寺云云   ■■京時 定額寺云云 曾我大臣   推古天皇卅四年秋八月 島大臣【曾我也】臥病 爲大臣之男女 并一千人■■■■   又本云 廿二年甲戌秋八月 大臣病臥云云 卅五年夏六月辛丑薨云云

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日文版~~~``文中の■は原典に文字脱落。不詳。~~~`` 伊波禮池邊雙槻宮[B](いわれいけのべのなみつきのみや)[/B][B]に天の下治しめしし橘豐日[/B][B]天皇[/B][B](たちばなのとよひのすめらみこと/用明天皇)[/B][B]、庶妹[/B][B](ままいも)[/B][B]穴穂部間人王[/B][B](あなほべのはしひとのひめみこ)[/B][B]を娶して、大后[/B][B](おおきさき)[/B][B]と爲し、生みませる児[/B][B](みこ)[/B][B]は、厩戸豐聰耳[/B][B](うまやとのとよとみみ)[/B][B]の聖德法王、次は久米王[/B][B](くめのみこ)[/B][B]、次は殖栗王[/B][B](うえくりのみこ)[/B][B]、次は茨田王。  また、天皇、蘇我伊奈米宿禰大臣[/B][B](そがのいなめのすくねのおおおみ)[/B][B]が女子[/B][B](むすめ)[/B][B]、名は伊志古那郎女[/B][B](いしこなのいらつめ)[/B][B]を娶[/B][B](めと)[/B][B]して生みませる児は多米王[/B][B](ためのみこ)[/B][B]。  また、天皇、葛木當麻倉首[/B][B](かつらぎのたじまのおびと)[/B][B]名は比里古[/B][B](ひりこ)[/B][B]が女子、伊比古郎女[/B][B](いひこのいらつめ)[/B][B]を娶して生みませる児は乎麻呂古王[/B][B](おまろこのみこ)[/B][B]、次に須加[IMGA]http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/kanjigif/017027.gif[/IMGA]古女王[/B][B](すかてこのひめみこ)[/B][B]【この王は伊勢の神前を拝み祭り、三はしらの天皇に至る】、合わせて聖王の兄弟は、七はしらの王子也。  聖德法王、膳部加多夫古臣[/B][B](かしわでのかたふこのおみ)[/B][B]が女子、名は菩岐岐美郎女[/B][B](ほききみのいらつめ)[/B][B]を娶して生みませる児は舂米女王[/B][B]、次に長谷王[/B][B](はつせのみこ)[/B][B]、次に久波太女王[/B][B](くはだのひめみこ)[/B][B]、次に波止利女王[/B][B](はとりのひめみこ)[/B][B]、次に三枝王[/B][B](みつえのみこ)[/B][B]、次に伊止志古王[/B][B](いとしこのみこ)[/B][B]、次に麻呂古王[/B][B](まろこのみこ)[/B][B]、次に馬屋古女王[/B][B](うまやこのひめみこ)[/B][B]【以上八人】。  また、聖王、蘇我馬古叔尼大臣[/B][B](そがのうまこのすくねのおおおみ)[/B][B]が女子、名は刀自古郎女[/B][B](とじこのいらつめ)[/B][B]を娶して生みませる児は山代大兄王[/B][B](やましろのおおえのみこ)[/B][B]【此の王、賢く尊き心有り、身命を棄てて人民を愛す。後の人、父の聖王に相濫[/B][B](みだ)[/B][B]るというは非也】。次に財王[/B][B](たからのみこ)[/B][B]、次に日置王[/B][B](ひおきのみこ)[/B][B]、次に片岡女王[/B][B](かたおかのひめみこ)[/B][B]【以上四人】。  また、聖王、尾治王が女子、位奈部橘王[/B][B](いなべのたちばなのひめみこ)[/B][B]を娶して生みませる児は、白髪部王[/B][B](しらかべのみこ)[/B][B]、次に手嶋女王[/B][B](てしまのひめみこ)[/B][B]、合わせて聖王の児は十四はしらの王子也。  山代大兄王、庶妹、舂米王を娶して生みませる児は、難波麻呂古王[/B][B](なにはまろこのみこ)[/B][B]。次に麻呂古王[/B][B](まろこのみこ)[/B][B]、次に弓削王[/B][B](ゆげのみこ)[/B][B]、次に佐佐女王[/B][B](ささのひめみこ)[/B][B]、次に三嶋女王[/B][B](みしまのひめみこ)[/B][B]、次に甲可王[/B][B](かふかのみこ)[/B][B]、次に尾治王[/B][B](おはりのみこ)[/B][B]。  聖王の庶兄多米王、其の父の池邊天皇[/B][B](いけのべのすめらみこと/用明天皇)[/B][B]の崩りし後に、聖王の母の穴太部間人王[/B][B](あなほべのはしひとのひめみこ)[/B][B]を娶して生みませる児は佐富女王[/B][B](さほのひめみこ)[/B][B]也。  斯貴島宮[/B][B](しきしまのみや)[/B][B]に天の下治しめしし阿米久爾於志波留支廣庭天皇[/B][B](あめくにおしはるきひろにはのすめらみこと/欽明天皇)[/B][B]【聖王の祖父也】、檜前天皇[/B][B](ひのくまのすめらみこと)[/B][B]が女子、伊斯比女命[/B][B](いしひめのみこと)[/B][B]を娶して生みませる児は他田宮[/B][B](おさたのみや)[/B][B]に天の下治しめしし天皇、怒那久良布刀多麻斯支天皇[/B][B](ぬなくらふとたましきのすめらみこと/敏達天皇)[/B][B]【聖王の伯叔也。】  また、宗我稲目足尼大臣[/B][B](そがのいなめのすくねのおおおみ)[/B][B]が女子、支多斯比賣命[/B][B](きたしひめのみこと)[/B][B]を娶して生みませる児は伊波禮池邊宮[/B][B](いはれいけのへのみや)[/B][B]に天の下治しめしし橘豐日天皇[/B][B](たちばなのとよひのすめらみこと/用明天皇)[/B][B]【聖王の父也】、妹、小治田宮[/B][B](おはりたのみや)[/B][B]に天の下治しめしし止餘美氣加志支夜比賣天皇[/B][B](とよみけかしきやひめのすめらみこと/推古天皇)[/B][B]【聖王の姨母也】。  また、支多斯比賣[/B][B](きたしひめ)[/B][B]が同母弟、乎阿尼命[/B][B](おあねのひめみこ)[/B][B]を娶して生みませる児は倉橋宮[/B][B](くらはしのみや)[/B][B]に天の下治しめしし長谷部天皇[/B][B](はつせべのすめらみこと/崇峻天皇)[/B][B]【聖王の伯叔也】、姉、穴太部間人王[/B][B](あなほべはしひとのひめみこ)[/B][B]【聖王の母也】。  右の五はしらの天皇は、他[/B][B](あた)[/B][B]し人を雑[/B][B](まじ)[/B][B]えること無く天の下治しめしき【但し倉橋は第四、小治田は第五也】。  小治田宮に宇[/B][B](あめのした)[/B][B]御[/B][B](しら)[/B][B]しめしし天皇[/B][B](推古天皇)[/B][B]の世に、上宮厩戸豐聰耳命[/B][B](うえのみやうまやとのとよとみみのみこと)[/B][B]、島大臣[/B][B](しまのおおおみ)[/B][B]と共に天の下の政[/B][B](まつりごこ)[/B][B]を輔[/B][B](たす)[/B][B]け三寶を興隆し、元興・天四王等の寺を起て、爵十二級、大德・少德・大仁・少仁・大禮・少禮・大信・少信・大義・少義・大智・少智を制す。  池邊天皇[/B][B](用明天皇)[/B][B]が后、穴太部間人王、厩戸に出[/B][B](いで)[/B][B]ましし時に、忽ち上宮王を産生[/B][B](う)[/B][B]みたまいき。  王の命は幼少にして聰敏、智有り。長大なる時に至りて一時[/B][B](ひととき)[/B][B]に八人[/B][B](やたり)[/B][B]の白し言うを聞きて其の理を辧ず。また、一を聞き八を智る。故に號[/B][B](なづ)[/B][B]けて厩戸豐聰八耳命[/B][B](うまやとのとよとやつみみのみこと)[/B][B]と曰う。    池邊天皇[/B][B](用明天皇)[/B][B]、其の太子[/B][B](みこ)[/B][B]聖德王を甚だ愛しと念い、宮の南の上の大殿に住まわしめき。故に上宮王[/B][B](うえのみやのみこ)[/B][B]と號[/B][B](もう)[/B][B]す。  上宮王の師は、高麗[/B][B](こま)[/B][B]の慧慈法師[/B][B](えじほうし)[/B][B]なり。王命[/B][B](みこのみこと)[/B][B]は能く涅槃常住・五種仏性の理を悟り、法華三車・權實二智の趣を明らかに開き、維摩不思議解脱の宗に通じ達す。且つは經部薩婆多両家の弁を知り、また三玄・五經の旨を知り、並びに天文地理の道を照らす。即ち法華等の經疏[/B][B](けいそ)[/B][B]七卷を造りたまい、號[/B][B](なづ)[/B][B]けて「上宮御製の疏[/B][B](そ)[/B][B]」と曰[/B][B](い)[/B][B]う。太子の問いたまう義に、師通ぜざる所有り。太子、夜夢に金人を見る。來たりて解せざる義を敎[/B][B](さと)[/B][B]す。太子、寤[/B][B](さ)[/B][B]めて後、即ち之を解す。乃[/B][B](すなわ)[/B][B]ち師に傳え、師また領解す。是の如き事は一・二のみに非ず。  太子、七寺を起す。四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂丘寺【彼の宮を并せて川勝秦公[/B][B](かわかつのはたのきみ)[/B][B]に賜う】、池後寺、葛木寺【葛木臣[/B][B](かつらぎのおみ)[/B][B]に賜う】。 [/B] [TR][TD]獺祭注:【川勝秦公】[/COLOR] 日本書紀 推古天皇十一年十一月 に 「皇太子、諸大夫に謂いて曰く『我、尊き仏像有り。誰かこの像を得て恭拝せん』とのたまう。時に[B]秦造河勝(はたのみやつこ・かわかつ)[/B]進みて曰く、『臣、拝みまつらん』という。」[/COLOR] とある。[/TD][/TR][B] 戊午[/B][B](つちのえ・うま)[/B][B]の年の四月十五日、少治田天皇[/B][B](推古天皇)[/B][B]、上宮王に請いて勝鬘經[/B][B](しょうまんぎょう)[/B][B]を講ぜしむ。其の儀は僧の如し。諸[/B][B](もろもろ)[/B][B]の王[/B][B](みこ)[/B][B]公主[/B][B](ひめみこ)[/B][B]及び臣[/B][B](おみ)[/B][B]連[/B][B](むらじ)[/B][B]公民[/B][B](おおみたから)[/B][B]、信受して嘉[/B][B](よろこ)[/B][B]ばざる無し。三箇日の内に、講説訖[/B][B](おわ)[/B][B]る。  天皇、聖王に物播磨國[/B][B](はりまのくに)[/B][B]揖保郡[/B][B](いほのこおり)[/B][B]佐勢地[/B][B](させのち)[/B][B]五十萬代[/B][B](いおよろずしろ)[/B][B]を布施したまう。聖王、即ち此の地を以って法隆寺の地と爲す【今、播磨に在る田三百餘町なり】。  慧慈法師、上宮御製の疏を[IMGA]http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/kanjigif/036876.gif[/IMGA][/B][B](もたら)[/B][B]して、本つ國に還り歸り、流傳する間、壬午[/B][B](みずのえ・うま)[/B][B]の年の二月廿二日の夜半、聖王薨逝[/B][B](かむざ)[/B][B]りましぬ。  慧慈法師之を聞き、王命の爲に經を講じ奉[/B][B](たてまつ)[/B][B]らんと發願して曰く、「上宮聖王、必ず化りて逢わんと欲[/B][B](おもお)[/B][B]す。吾、慧慈は來年の二月廿二日に死なば、必ず聖王の面と浄土に逢い奉らん。」 遂に其の言の如く、明くる年の二月廿二日に到りて、病を發し命終んぬ。  池邊大宮に宇[/B][B](あめのした)[/B][B]御[/B][B](しら)[/B][B]しめしし天皇[/B][B](用明天皇)[/B][B]、大御身労[/B][B](いたづ)[/B][B]き賜う時、歳は丙午[/B][B](ひのえ・うま)[/B][B]に次[/B][B](やど)[/B][B]りし年、大王天皇[/B][B](おおきみのすめらみこと/推古天皇)[/B][B]と太子を召して誓願し賜う、「我が大御病、大きに平がんと欲し坐すが故に、寺を造り薬師の像を作らしめ仕え奉つれ」と詔りたまいき。然るに時當[/B][B](まさ)[/B][B]に崩[/B][B](かむざ)[/B][B]り賜いて、造り堪[/B][B](あ)[/B][B]えざりき。小治田大宮に宇[/B][B](あめのした)[/B][B]御[/B][B](しら)[/B][B]しめしし大王天皇[/B][B](おおきみのすめらみこと)[/B][B]、及び東宮聖德王、大命を受け賜いて、歳は丁卯[/B][B](ひのと・う)[/B][B]に次[/B][B](やど)[/B][B]りし年に仕え奉つりき。  右は法隆寺金堂に坐す薬師像の光後の銘文なり。即ち寺を造りし始めの縁の由也。  法興元丗一年、歳は辛巳[/B][B](かのと・み)[/B][B]に次[/B][B](やど)[/B][B]る十二月、鬼前大后[/B][B](きさきのおおきさき)[/B][B]崩[/B][B](かむざ)[/B][B]りましぬ。明くる年の正月廿二日、上宮法王、病に枕して[IMGA]http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/kanjigif/010632.gif[/IMGA][/B][B](たのし)[/B][B]まず。干食王后[/B][B](かしわでのみこのきさき)[/B][B]、も仍[/B][B](ま)[/B][B]た労疾[/B][B](いたづ)[/B][B]きたまうを以って、並びに床に著く。時に王后・王子等、及び諸の臣と、深く懐[/B][B](おも)[/B][B]い愁い毒[/B][B](なや)[/B][B]み[/B][B]、共に相い發願す。「仰ぎて三寶に依り、當に釋像の尺寸王身を造る。此の願力を蒙[/B][B](こうむ)[/B][B]り、病を轉じ壽[/B][B](よわい)[/B][B]を延べ、世の間に安住したまうことを。若し是れ定業[/B][B](じょうぎょう)[/B][B]にして、以って世に背[/B][B](そむ)[/B][B]きたまはば、往きて浄土に登り、早[/B][B](と)[/B][B]く妙果昇らせたまわんことを。」と。二月廿一日癸酉[/B][B](みずのと・とり)[/B][B]に王后即世[/B][B](そくせい)[/B][B]したまう。翌日法王登遐[/B][B](とうか)[/B][B]したまう。癸未[/B][B](みずのと・ひつじ)[/B][B]の年の三月中、願の如く敬いて釋迦尊像、并びに侠待、及び荘厳具[/B][B](しょうごんぐ)[/B][B]を造り竟[/B][B](おわ)[/B][B]る。斯の微福に乗り、信道の知識、現在安隠にして、生れ出で死に入るも、三主に随い奉り、三寶を紹隆し、遂に彼岸を共にせん。普遍[/B][B](あまね)[/B][B]く六道法界[/B][B](りくどうほっかい)[/B][B]の含識[/B][B](がんしき)[/B][B]も苦縁を脱するを得て、同じく菩提に趣かん。司馬鞍首[/B][B](しば・くらつくりのおびと)[/B][B]止利仏師[/B][B](とりぶっし)[/B][B]をして造らしむ。  右は法隆寺金堂に坐す釋迦仏の光後の銘文件[/B][B](くだん)[/B][B]の如し【今、私に云う、これ正面中臺の佛也】。  釋して曰く、法興元丗一年、此れ能く知らざる也。但し帝記に案じて云う、小治田天皇[/B][B](推古天皇)[/B][B]の丗、東宮厩戸豐聰耳命、大臣[/B][B](おおおみ)[/B][B]宗我馬子宿禰[/B][B](そがのうまこのすくね)[/B][B]、共に平章[/B][B](へいしょう=ともにはかる)[/B][B]して三寶を建立し、始めて大寺を興す。故に法興元丗と曰う。これ即ち銘に云う法興元丗一年也。後に見ん人、若し年號と疑うべくも、これ然らず。然れども則ち一年と言える字、其の意見え難し。然れども見る所の者、聖王の母の穴太部王、辛巳[/B][B](かのと・み)[/B][B]の年に薨逝したまうは、即ち小治田天皇[/B][B](推古天皇)[/B][B]の御世。故に即ち其の年を指し、故に一年と云い、其れ異なる趣き無し。  鬼前大后[/B][B](きさきのおおきさき)[/B][B]は、即ち聖王の母の穴太部間人王[/B][B](あなほべのはしひとのひめみこ)[/B][B]也。鬼前[/B][B](きさき)[/B][B]と云うはこれ神前[/B][B](かむさき)[/B][B]也。何故に神前の皇后と言うとあらば、この皇后の同母弟、長谷部天皇[/B][B](崇峻天皇)[/B][B]、石寸神前宮[/B][B](いわむらのかむさきのみや)[/B][B]に天の下治しめしき。若し疑わば其の姉の穴太部王、即ち其の宮に坐すが故に神前皇后[/B][B](かむさきのおおきさき)[/B][B]と稱す也。  明年と言えるは即ち壬午[/B][B](みずのえ・うま)[/B][B]の年也。二月廿一日癸酉[/B][B](みずのと・とり)[/B][B]、王后即世したまうは、これ即ち聖王が妻の膳大刀自[/B][B](かしわでのおおとじ)[/B][B]也。二月廿一日は、壬午[/B][B](みずのえ・うま)[/B][B]の年の二月也。翌日法王登遐したまうは、即ち上宮聖王也。『即世[/B][B](そくせい)[/B][B]』・『登遐[/B][B](とうか)[/B][B]』は、これ即ち死の異名也。故、今この銘文に依りて、應[/B][B](まさ)[/B][B]に壬午[/B][B](みずのえ・うま)[/B][B]の年の正月廿二日、聖王病に枕すと言うべし。即ち同じ時に、膳大刀自[/B][B](かしはでのおおとじ)[/B][B]労を得る也。大刀自は、二月廿一日に卒す。聖王は廿二日に薨ず。これを以ちて明らかに知るは、膳夫人は先の日に卒し、聖王は後の日に薨ずる也。則ち歌に證[/B][B](あか)[/B][B]して曰く。  伊我留我乃 [/B]    斑鳩の[B]  止美能井乃美豆 [/B]   鳥見の井の水[B]  伊加奈久爾 [/B]   いかなくに[B]  多義[IMGA]http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/kanjigif/017027.gif[/IMGA]麻之母乃 [/B]   たきてましもの[B]  止美乃非能美豆 [/B]   鳥見の樋の水[B]  この歌は膳夫人[/B][B](かしわでのおおきさき)[/B][B]の病いに臥せて将に没する時に臨み水を乞いたまう。然るに聖王許さず、遂に夫人卒す。即ち聖王誄[/B][B](いた)[/B][B]みてこの歌を詠みたまう。即ち其の證[/B][B](あかし)[/B][B]也。但し銘文の意、夫人の卒したまう日顕[/B][B](あき)[/B][B]らか也。聖王の薨じたまう年月を注さず。然るに諸の説文、分明に云う、壬午[/B][B](みずのえ・うま)[/B][B]の年の二月廿二日甲戌[/B][B](きのえ・いぬ)[/B][B]の夜半、上宮聖王薨逝したまうと。  出生入死は、若し其の往き反り、生るる所の辭也。  三主は、若し疑うらくは神前大后、上宮聖王、膳夫人、合せてこの三所[/B][B](みはしら)[/B][B]也。  斯[IMGA]http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/kanjigif/022705.gif[/IMGA]斯麻宮[/B][B](しきしまのみや)[/B][B]に天の下治しめしし天皇、名は阿米久爾意斯波留支比里爾波乃彌己等[/B][B](あめくにおしはるきひろにはのみこと/用明天皇)[/B][B]、巷奇大臣[/B][B](そがのおおおみ)[/B][B]名は伊奈米足尼[/B][B](いなめのすくね)[/B][B]が女、名は吉多斯比彌乃彌己等[/B][B](きたしひめのみこと)[/B][B]を娶して大后と爲す。生みませる名[/B][B](みな)[/B][B]は多至波奈等己比乃彌己等[/B][B](たちはなとこひのみこと)[/B][B]、妹の名は等已彌居加斯支移比彌乃彌己等[/B][B](とよみけかしきやひめのみこと)[/B][B]。  また大后の弟、名は乎阿尼乃彌己等[/B][B](おあねのみこと)[/B][B]を娶して后と爲し、生みませる名は孔部間人公主[/B][B](あなほべはしひとのひめみこ)[/B][B]。  斯歸斯麻天皇[/B][B](しきしまのすめらみこと/欽明天皇)[/B][B]の子、名は[IMGA]http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/kanjigif/067118.gif[/IMGA]奈久羅乃布等多麻斯支乃彌己等[/B][B](ぬなくらのふとたましきのみこと/敏達天皇)[/B][B]、庶妹、名は等己彌居加斯支移比彌乃彌己等[/B][B](とよみけかしきやひめのみこと)[/B][B]を娶して大后と爲す。乎沙多宮[/B][B](おさたのみや)[/B][B]に坐しまして天の下治しめしき。生れます名は尾治王[/B][B](おはりのみこ)[/B][B]。  多至波奈等己比乃彌己等[/B][B](たちばなとこひのみこと/用明天皇)[/B][B]、庶妹、名は孔部間人公主[/B][B](あなほべはしひとのひめみこ)[/B][B]を娶して大后と爲す。濱邊宮[/B][B](いけのべのみや)[/B][B]に坐しまして天の下治しめしき。生れます名は等己刀彌彌乃彌己等[/B][B](とよとみみのみこと)[/B][B]、尾治大王[/B][B](おはりのみこ)[/B][B]の女、名は多至波奈大女郎[/B][B](たちばなのおおいらつめ)[/B][B]を娶して后と爲す。  歳は辛巳[/B][B](かのと・み)[/B][B]十二月廿一日癸酉[/B][B](みずのと・とり)[/B][B]に在り、日入[/B][B](ひぐれ)[/B][B]に、孔部間人母王[/B][B](あなほべはしひとのははみこ)[/B][B]崩りましぬ。  明くる年の二月廿二日、甲戌[/B][B](きのえ・いぬ)[/B][B]の夜半、太子崩りましぬ。  時に多至波奈大女郎[/B][B](たちばなのおおいらつめ)[/B][B]、悲哀[/B][B](かなし)[/B][B]び嘆息[/B][B](なげき)[/B][B]て白[/B][B](もう)[/B][B]さく、「畏[/B][B](かしこ)[/B][B]き天皇の前に曰[/B][B](い)[/B][B]いて敬[/B][B](もう)[/B][B]すは之れ恐れありと雖ども懐[/B][B](おも)[/B][B]う心止[/B][B](とど)[/B][B]め難し。我が大王と母王[/B][B](ははのおおきみ)[/B][B]、期[/B][B](ちぎ)[/B][B]りしが如く従遊[/B][B](かむざ)[/B][B]りまして、痛酷[/B][B](いたまし)[/B][B]きこと比ぶる无し。我が大王告げたまいしく、『世の間は虚假[/B][B](こけ)[/B][B]にして、ただ仏のみこれ真なり。』と。其の法を玩味するに、我が大王は謂うに、應[/B][B](まさ)[/B][B]に天壽國の中に生れまさんとす。而るに彼の國の形は眼にも看[/B][B](み)[/B][B]え[IMGA]http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/kanjigif/003254.gif[/IMGA][/B][B](かた)[/B][B]き所。[IMGA]http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/kanjigif/010661.gif[/IMGA][/B][B](ねが)[/B][B]わくは圖像に因りて大王の往生したまう状[/B][B](かたち)[/B][B]を觀んと欲[/B][B](おもお)[/B][B]す。」と。天皇[/B][B](推古天皇)[/B][B]之を聞きて悽然として告げて曰く、「一[/B][B](ひとり)[/B][B]の我が子有り、啓[/B][B](もう)[/B][B]す所誠に以って然[/B][B](しか)[/B][B]なり」と。諸の采女等に勅[/B][B](みことのり)[/B][B]して、繍帷[/B][B](ぬいもののかたびら)[/B][B]二張を造らせたまう。畫者[/B][B](えがけるひと)[/B][B]は、東漢[/B][B](やまとのあや)[/B][B]の末賢[/B][B](めけ)[/B][B]、高麗[/B][B](こま)[/B][B]の加西溢[/B][B](かせい)[/B][B]、または漢[/B][B](あや)[/B][B]の奴加己利[/B][B](ぬかこり)[/B][B]、令者[/B][B](うなかせるもの)[/B][B]は椋部秦久麻[/B][B](くらひとべのはたのくま)[/B][B]。  右は法隆寺に在りて蔵する繍帳二張、縫い著けし龜の背の上の文字也。更更知られざる者也。  巷奇、【蘇我也】。彌の字【或いは賣[/B][B](み)[/B][B]の音を當てる】。己の字【或いは余[/B][B](よ)[/B][B]の音を當てる】。至の字【或いは知[/B][B](ち)[/B][B]の音を當てる】。白畏天之は【天即ち小治田天皇[/B][B](おはりだのすめらみこと/推古天皇)[/B][B]也】。太子崩は【即ち聖王也】。従遊は【死也】。天壽國は【猶[/B][B](また)[/B][B]は天のみ云う】。天皇聞之は【また小治田天皇也】。令は【猶[/B][B](また)[/B][B]は監也】。  上宮薨じたまう時に臣勢三杖大夫の歌  伊加留我乃 [/B]   いかるがの[B]  止美能乎何波乃 [/B]   とみのおがはの[B]  多叡婆許曾 [/B]   たえはこそ[B]  和何於保支美乃 [/B]   わがおほきみの[B]  彌奈和須良叡米 [/B]   みなわすらえめ[B]  美加彌乎須 [/B]   みかみおす[B]  多婆佐美夜麻乃 [/B]   たばさみやまの[B]  阿遅加氣爾 [/B]   あじかけに[B]  比止乃麻乎之志 [/B]   ひとのまおしし[B]  和何於保支美波母 [/B]   わかおほきみはも[B]  伊加留我乃 [/B]   いかるがの[B]  己能加支夜麻乃 [/B]   このかきやまの[B]  佐可留木乃 [/B]   さかるきの[B]  蘇良奈留許等乎 [/B]   そらなることを[B]  支美爾麻乎佐奈 [/B]   きみにまおさな[B]  丁未[/B][B](ひのと・ひつじ)[/B][B]の年の六七月、蘇我馬子宿禰大臣[/B][B](そがのうまこのすくねのおおおみ)[/B][B]、物部室屋大連[/B][B](もののべももりやのおおむらじ)[/B][B]を伐つ。時に大臣の軍士、尅[/B][B](たえ)[/B][B]ずして退く。故、則ち上宮王、四王像を擧げ、軍士の前に建てて、誓いて云いしく、「若し此の大連を亡ぼし得れば、四王の爲に寺を造り尊び重く供養奉つらん。」と。即ち軍士勝を得て、大連を取りて訖る。依りてこれ即ち難波に四天王寺を造る。聖王生れまして十四の年也。  志癸島天皇[/B][B](しきしまのすめらみこと/欽明天皇)[/B][B]の御世、戊午[/B][B](つちのえ・うま)[/B][B]の年十月十二日、百済國の聖明王、始めて度りきて仏像・經敎、并せて僧等を奉る。勅[/B][B](みことのり)[/B][B]して蘇我稲目宿禰大臣[/B][B](そがのいなめのすくねのおおおみ)[/B][B]に授け、興隆せしむ。  庚寅[/B][B](かのえ・とら)[/B][B]の年、仏殿・仏像を焼き滅ばし、難波の堀江に流し却[/B][B](う)[/B][B]てき。  小治田天皇[/B][B](推古天皇)[/B][B]の御世、乙丑[/B][B](きのと・うし)[/B][B]の年の五月、聖德王と島大臣、共に謀り仏法を建立し、更に三寶を興す。即ち五行に准[/B][B](したが)[/B][B]い、爵位を定めたまう。七月、十七條の法[/B][B](のり)[/B][B]を立てたまう。  飛鳥天皇[/B][B](あすかのすめらみこと/皇極天皇)[/B][B]の御世、癸卯[/B][B](みずのと・う)[/B][B]の年の十月十四日、蘇我豐浦毛人大臣[/B][B](そがのとゆらのえみしのおおおみ)[/B][B]が児[/B][B](みこ)[/B][B]入鹿臣■■林太郎[/B][B](いるかのおみ-[/B]文字脱落[B]-はやしのたいろう)[/B][B]。伊加留加宮[/B][B](いかるがのみや)[/B][B]に坐して、山代大兄[/B][B](やましろのおおえ)[/B][B]及び其の昆第等、合わせて十五王子等[/B][B](とおあまりいつはしらのみこたち)[/B][B]を悉く滅す。 [/B] [TR][TD]獺祭注:【入鹿臣■■林太郎】 日本書紀 皇極天皇二年分注 に 「[B]林[/B]臣(はやしのおみ)は入鹿ぞ」 とある。 また同四年に 「高向臣國押(たかむくのおみ・くにおし)、漢直(あやのあたい)等に謂いて曰く『吾等、君の[B]大郎[/B](たいろう)によりて戮(ころ)されぬべし…」 とある。 すなわち 林 太郎 は入鹿のこと。 なお以下の数行はいわゆる [B]乙巳(いっし)の変[/B] を記す。[/TD][/TR][B] ■■天皇[/B][B](文字脱落して不詳。皇極天皇のこと)[/B][B]の御世、乙巳[/B][B](きのと・み)[/B][B]の年の六月十一日、近江天皇[/B][B](おうみのすめらみこと/天智天皇・当時中大兄)[/B][B]【生れまして廿一年】、林太郎■■[/B][B](はやしのたいろう-文字脱落-)[/B][B]を殺す。明くる日を以って、其の父の豐浦大臣[/B][B](とゆらのおおおみ/蘇我蝦夷)[/B][B]と子孫等、皆之を滅す。 [/B][B]  志歸島天皇[/B][B](しきしまのすめらみこと/欽明天皇)[/B][B]天の下治しめすこと[IMGA]http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/kanjigif/002712.gif[/IMGA]一年【辛卯の年の四月に崩りましき。陵[/B][B](みささぎ)[/B][B]は檜前坂合岡[/B][B](ひのくまのさかあいのおか)[/B][B]也】。  他田天皇[/B][B](おさたのすめらみこと/敏達天皇)[/B][B]天の下治しめすこと十四年【乙巳[/B][B](きのと・み)[/B][B]の年の八月に崩りましき。陵は河内の志奈我原[/B][B](しながのはら)[/B][B]に在り】。  池邊天皇[/B][B](いけのへのすめらみこと/用明天皇)[/B][B]天の下治しめすこと三年【丁未[/B][B](ひのと・ひつじ)[/B][B]の年の四月に崩りましき。秋七月に葬り奉る。或いは川内の志奈我中尾稜[/B][B](しながのなかのおのみささぎ)[/B][B]と云う】。  倉橋天皇[/B][B](くらはしのすめらみこと/崇峻天皇)[/B][B]天の下治しめすこと四年【壬子[/B][B](みずのえ・ね)[/B][B]の年の十一月に崩りましき。實に島大臣の滅する所と爲す。陵は倉橋岡[/B][B](くらはしのおか)[/B][B]に在り】。  小治田天皇[/B][B](おはりだのすめらみこと/推古天皇)[/B][B]天の下治しめすこと卅六年【戊子の年の三月に崩りましき。陵は大野岡[/B][B](おおののおか)[/B][B]也。或いは川内の志奈我山田寸[/B][B](しながのやまだのむら)[/B][B]と云う】  上宮聖德法王、または法主王と云う。甲午[/B][B](きのえ・うま)[/B][B]の年に産れまして、壬午[/B][B](みずのえ・うま)[/B][B]の年の二月廿二日に薨逝したまう【生れまして[IMGA]http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/kanjigif/002712.gif[/IMGA]九年。小治田宮の東宮と爲す。墓は川内の志奈我岡[/B][B](しながのおか)[/B][B]也】。 [/B] [HR][B] 裏書  庚戌[/B][B](かのえ・いぬ)[/B][B]春三月、學問尼善信等、百済より還り、櫻井寺に住む。今の豐浦寺也【初め櫻井寺と云い、後に豐浦寺と云う】。  曾我大臣云う、豐浦大臣と云々。  觀勒僧正、推古天皇の即位十年の壬戌[/B][B](みずのえ・いぬ)[/B][B]に來る云々。  佛工[/B][B](ぶつし)[/B][B]鞍作鳥[/B][B](くらつくりのとり)[/B][B]、祖父は司馬達等[/B][B](しばたつと)[/B][B]、父は多須奈[/B][B](たすな)[/B][B]。  或る本に云う、播磨の水田、二百七十三町五段廿四歩云々。  また本に云う、三百六十町云々。  有る本に云う、寺を造るを請願し、三寶を恭敬す。十三年辛丑[/B][B](かのと・うし)[/B][B]、春三月十五日、始め浄土寺云々。  注に云う、辛丑[/B][B](かのと・うし)[/B][B]の年、始めて地を平らげ、癸卯[/B][B](みずのと・う)[/B][B]の年、金堂を立て云々。戊申[/B][B](つちのえ・さる)[/B][B]、始めて僧住む。己酉[/B][B](つちのと・とり)[/B][B]の年の三月廿五日、大臣害に遇う。癸亥[/B][B](みずのと・い)[/B][B]の年、塔を構う。癸酉[/B][B](みずのと・とり)[/B][B]の年、十二月十六日、塔の心柱を建つ。其の柱の礎の中に圓き穴を作り、浄土寺を列ね、中に蓋有る大鋭一口を置き、内に種々の珠玉を盛る。其の中に塗壷有り。壷の内にまた種々の珠玉を盛る。其の中に銀の壷有り。壷の中内に純金の壷有り。其の内に青■■瓶有り、其の内に舎利八粒を納む。丙子[/B][B](ひのえ・ね)[/B][B]の年の四月八日、露盤[/B][B](ろばん)[/B][B]を上ぐ。戊寅[/B][B](つちのえ・とら)[/B][B]の年の十二月四日、丈六の佛像を鋳る。乙酉[/B][B](きのと・とり)[/B][B]の年の三月廿五日、佛眼を點ず。山田寺これ也。【注、承歴二年戊午[/B][B](つちのえ・うま)[/B][B]、南一房之を冩す。直曜の本云々】。  曾我日向子臣[/B][B](そがのひむかこのおみ)[/B][B]、字[/B][B](あざな)[/B][B]は無耶志臣[/B][B](むざしのおみ)[/B][B]。難波長柄豐碕宮[/B][B](なにはのながえのとよさきのみや)[/B][B]に宇[/B][B](あめのした)[/B][B]御しめしし天皇の世、筑紫の大宰帥に任ず。甲寅の年の十月、癸卯[/B][B](みずのと・う)[/B][B]の朔の壬子[/B][B](みずのえ・ね)[/B][B]、天皇の爲に[IMGA]http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/kanjigif/010632.gif[/IMGA][/B][B](おも)[/B][B]い、般若寺を起つ云々。  ■■京時、定額寺云々。曾我大臣。  推古天皇の卅四年秋八月、島大臣【曾我也】病に臥す。大臣の爲に男女、并せて一千人■■■■。  また本に云う、廿二年甲戌[/B][B](きのえ・いぬ)[/B][B]の秋八月、大臣病に臥す云々。卅五年の夏六月辛丑[/B][B](かのと・うし)[/B][B]に薨ず云々。 [/B]
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