折子来看

昨天(现在其实该说“前天”了……)觉迷找到材料,说敦盛的小枝就是叶二,于是想起《平家物语》中曾交代小枝的来历,又《源平盛衰记》也当有同样的记载,不料找到《平家物语》的译本和网上的《源平盛衰记》对读之下,反增疑惑,于是写下这一段,折子可以参考。这里为防翻译出错,选用http://www.j-texts.com/(日本文学电子图书馆)的《平家物语》(高野本)和《源平盛衰记》(国民文库本),以下不再注明。
首先,小枝的来历,在《平家物语》中是这样解释的:
1)件の笛はおほぢ【祖父】忠盛笛の上手にて、鳥羽院より給はられたりけるとぞ聞えし。経盛相伝せられたりしを、篤盛【*敦盛】器量たるによて、もたれたりけるとかや。名をばさ枝【小枝】とぞ申ける。(卷九《敦盛最期》)
依此说法,小枝乃是鸟羽院赐予忠盛的,后来传给敦盛,敦盛为之命名“小枝”,则其很可能是博雅的叶二(《枕草子》卷五《无名的琵琶》中之“二叶”,日文正作“葉二”,或是译者之误)。然而《源平盛衰记》的说法完全不同:
2)彼笛と申は、父経盛笛の上手にて御座(おはしまし)けるが、砂金百両宋朝に被(レ)渡て、よき漢竹を一枝取寄、殊によき両節間を一よ取、天台座主(てんだいざす)前明雲(めいうん)僧正(そうじやう)に被(レ)仰て、秘密瑜伽(ゆが)壇に立て、七日加持して、秘蔵して被(レ)彫たりし笛也。子息達の中には、敦盛器量の仁なりとて、七歳の時より伝て持れたりけり。夜深る儘にさえければ、さえだと名付られける也。(卷三十八《平家公達最後並頸共掛一谷(いちのたに)事》)
据此,则小枝乃是用经盛从宋朝买来的竹子雕成的,不仅与叶二全无关系,而且甚至不是上皇所赐。
同时,治承年间反抗平氏的高仓宫也有称作小枝的名笛,这一点《物语》和《盛衰记》都曾提到:
3)長兵衛尉信連は、御所の留守にぞをか【置か】れたる。女房達の少々おはしけるを、かしこここへたちしのば【忍ば】せて、み【見】ぐるしき物あらばとりした【取認】ためむとてみる【見る】ほど【程】に、宮のさしも御秘蔵あり【有り】ける小枝ときこえ【聞え】し御笛を、只今しもつねの御所の御枕にとりわすれ【忘れ】させたまひ【給ひ】たりけるぞ、立かへ【帰つ】てもとら【取ら】まほしうおぼしめす【思し召す】、信連これをみ【見】つけて、「あなあさまし。君のさしも御秘蔵ある御笛を」と申て、五町がうちにお【追つ】ついてまいらせ【参らせ】たり。宮なのめならず御感あて、「われしな【死な】ば、此笛をば御棺にいれよ【入れよ】」とぞ仰ける。(《平家物语》卷四《信连》)
4)希代の宝物共も打捨させ御座、御厨子に被(レ)残ける、御反古ども、なからん跡までもいかゞと被思召(おぼしめさる)、御笛御琵琶御遊(ぎよいう)の具足、源氏、狭衣、古今、万葉、歌双紙等、何も/\御心に懸らずしもはなけれ共、其中に小枝と聞えし、漢竹の御笛の、殊御秘蔵ありけるをば、何の浦へも御身にそへんとこそ、兼ては被思召(おぼしめされ)けるに、余りの御心迷に、常の御所の御枕に残し留められけるこそ御心にかけて、立帰ても取まほしく思召(おぼしめし)て、延もやらせ給はず、御伴に候ける信連を召て、加程に成御有様(おんありさま)にては、何事か御心に懸べきなれども、小枝をしも忘ぬる事の口惜さよ、いかゞせんと仰有ければ、信連さる男にて、最安き御事にて侍とて走帰、御所中(ごしよぢゆう)大概取したゝめて、此笛を取、二条高倉にて追付進て献(レ)之、宮御涙(おんなみだ)を流させ給(たま)ひ、よにも御嬉しげに被思召(おぼしめされ)たり。(《源平盛衰记》卷十三《熊野新宫军事》)
两书对于高仓宫的“小枝”的记载,大致相同,不过《平家物语》中多出了高仓宫希望以小枝随葬的内容,而《源平盛衰记》则说小枝乃是“漢竹の御笛の”,这是《平家物语》所未提及的。
另外,高仓宫还有一支名为“蝉折”的名笛,其来历在《平家物语》和《源平盛衰记》中也都有记载。《平家物语》解释道:
5)此宮は蝉をれ小枝ときこえし漢竹の笛をふたつもたせ給へり。かのせみおれと申は、昔鳥羽院の御時、こがねを千両宋朝の御門へおくらせ給たりければ、返報とおぼしくて、いきたる蝉のごとくにふしのついたる笛竹をひとよおくらせ給ふ。「いかがこれ程の重宝をさうなうはゑらすべき」とて、三井寺の大進僧正覚宗に仰て、壇上にたて、七日加持してゑらせ給へる御笛也。或時、高松の中納言実平卿まいて、この御笛をふかれけるが、よのつねの笛のやうにおもひはすれて、ひざよりしもにおかれたりければ、笛やとがめけん、其時蝉をれにけり。さてこそ蝉をれとはつけられたれ。笛のおん器量たるによて、此宮御相伝ありけり。(卷四《永僉議》)
这里把蝉折和小枝都称为“漢竹の笛”,看来传说中这两支笛子都来自中国,值得注意的是,这里对于蝉折来历的解说几乎与上引《源平盛衰记》卷三十八《平家公達最後並頸共掛一谷(いちのたに)事》中对小枝的解释相同,不过两事的主人公不同而已,看起来颇似一事的分化。而《源平盛衰记》对此事的记载大致相同:
6)蝉折と云御笛は、鳥羽院(とばのゐんの)御時、唐土の国王より御堂造営の為にとて、檜木の材木を所望ありけるに、砂金千両に檜木の材木を被進送たりければ、唐土の国王其御志を感じて、種々の重宝を被報進ける中に、漢竹一両節間被(レ)制たり。竹の節生たり。蝉につゆたがはざりければ、希代の宝物と思召(おぼしめし)て、三井寺(みゐでら)の法輪院覚祐僧正(そうじやう)に仰て、護摩の壇上に立て、七箇日加持して後、彫たりける御笛也ければ、おぼろげの御遊(ぎよいう)には取りも出されざりけり。鳥羽殿(とばどの)にて御賀の舞のありけるに、閑院の一門に、高松中納言実平、此御笛を給(たまひ)て吹けるが、すき声のしけるをあたゝめんとて、普通様に思ひつゝ、膝の下に推かいて、又取上吹んとしてけるに、笛咎めや思けん、取はづして落して蝉を打折けり。其よりして此笛を、蝉折とぞ名ける。高倉宮(たかくらのみや)管絃に長じまし/\ける上、ことに御笛の上手にて渡らせ給(たま)ひければ、御孫子とて、鳥羽院(とばのゐん)此宮には御譲ありける也。(卷十五《蝉折笛事》)
那么,我们对上面的材料的相似点作一下总结:
1)材料(2)、(5)、(6)的相似程度很大,令人怀疑本是一事。
2)材料(1)、(5)、(6)都提到鸟羽院。
3)材料(3)、(4)都提到高仓宫有称作小枝的名笛。
4)材料(2)、(4)、(5)都说小枝是以“漢竹”雕成。
5)材料(5)、(6)都说蝉折是以“漢竹”雕成。
高仓宫与敦盛同有名为“小枝”的名笛,觉迷说可能是仿制,或者是类似品牌的效果,我觉得这种说法并不合适,因为乐器是风雅之物,从物主方面看,自然希望能拥有独一无二的名品;从匠人方面看,似乎也不见将作品取同样名字的(势州村正那种量产消耗品不讨论)。我怀疑,小枝既非鸟羽上皇赐予忠盛的——忠盛当时是否得宠到那个地步还是问题,也不是经盛从中国购入笛材请人祈祷雕成,而是高仓宫死后流入敦盛之手。据《平家物语》,高仓宫死时小枝就挂在他的腰间,那么只要辨认出高仓宫的身份,又打听到蝉折已经进奉佛前,即使没有任何标记,也应该知道这支笛子是名笛小枝了。而从源氏的宝刀“小乌”在源义朝被杀后为平重盛所得来看,当时将敌人的珍藏据为己有并非罕见。小枝就此入于平家之手,也是顺理成章的事情。
另外,所谓“鳥羽院(とばのゐんの)御時、唐土の国王より御堂造営の為にとて、檜木の材木を所望ありけるに、砂金千両に檜木の材木を被進送たりければ”的说法,显然属于附会,经盛以砂金百两到宋朝购得笛材的可能性倒相对大一些。不过唐宋时期中国和日本民间贸易不少,无论蝉折还是小枝,笛材都有可能来自中国,这并不奇怪。然而,(1)说鸟羽院将小枝赐给忠盛;(5)、(6)里说鸟羽院买来了蝉折的笛材,蝉折就是这样传到了高仓宫手里,如果把(5)、(6)里的蝉折换成(2)里的小枝(前面说了,小枝和蝉折由唐土而来的故事可能是一事的分化),那么小枝也是鸟羽院留下给孙子的了。为什么与小枝有关的故事集中在鸟羽院身上呢?现在还不清楚。但有一点,《枕草子》说天皇拥有叶二,当时的天皇是一条天皇,鸟羽院是他的六世孙,如果小枝就是叶二的话,那么说明直到鸟羽院时叶二还是属于皇室的。
评论(4)

作为过渡的就是青叶这个名字。



从我查的来看~至少 葉二 ( ようじ ),葉二( はふたつ)没有本质的区别,只是前者是音读,后者是训读

不过,如果小枝便是叶二的话,那么书里面应该有它被皇室收藏的纪录

所以还需要去查啊



顺带把我归纳的几点发出,以待讨论

叶二最早出现的文献是哪个?同期是否有别的文献提到?       

叶二确实就叫叶二吗?是否是音谬?葉二 ( ようじ ),葉二つ( はふたつ)?它们有什么联系吗?-----

叶二?叶双?到底哪个是正名?它们有区别吗?

青叶笛?小枝?们都是龙笛,或许它们就是叶二的别名?(小枝依旧于现实中存在)

ようじ,是杨枝,小枝?杨枝?是否与叶二的关系就在此?

枕草子的二叶,是否是叶二?它是否作为天皇的宝物而被秘密保存了?博雅的笛子怎么会去一条天皇哪里?

还有什么缺漏的咩?



1、《枕草子》吧,不知道有没其他文献。
2、如果《枕草子》那么写,应该就不是音谬。
3、叶二是正名,叶双应该是改写。
4、可能呃。
5、不清楚。
6、是,上面我提到了,原文正作葉二,不知道国内咋翻译的。
7、应该是。
8、这得问博雅家……
9、差不多了吧……为什么与小枝有关的故事集中在鸟羽院身上呢?


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